(3)「そのとき、神が、『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(3節)
混沌とした世の中で、私達は、しばしば自分の人生や存在価値について考えさせられることがあります。また、人生の悩み、問題、病苦にぶつかったりして、心が暗くなり、どうしようもない時がありますが、そのような時、この聖句を口ずさみ、もう一度、神を仰ぎ見ることを通して、新たな希望と可能性が、心の中に湧き上がってくることを覚えるのです。
私達は、この世に存在しているゆえに、この世の支配(私達の社会や環境の影響・暗闇の力)を受けることは避けられないでしょう。しかし、聖書の中に、この世のいかなる重荷や誘惑にも屈することのなかった一人の人物を見ることができます。それが、「わたしは世の光です。わたしに従って来る人は、決して暗闇の生活をすることなく、命の光を持つことができます。」(現代訳 ヨハネ8:12)と言われた、神の御子、イエス・キリストです。
聖書にはそのことを象徴する一つの出来事が描かれています。
イエスが巡回伝道をしておられたある日、ガリラヤ湖で、弟子達と共に乗っておられた舟が激しい突風に出会ったことがありました。(マルコ4:35~41)ガリラヤ湖は、地形的には、周りを山に囲まれた谷にある湖といわれています。それで、しばしば、「吹き降ろしの強い風」が吹くことがありました。弟子達を襲ったのも、この激しい突風だったと推測できます。高波が生じ、波が打ち込んできて、舟がまさに、波に飲まれそうになった時、弟子達は慌てて、不安におのきました。そして、嵐の中で懸命に舟を守り、向こう岸へたどり着こうとしました。ところが、同舟(どうしゅう)しておられたイエスは、まるで、この激しい嵐を知らないかのように、「ともの方で、枕をして、眠っておられた」(38節)と記されています。このイエスの様子が、あまりにも呑気に見えたのでしょうか、弟子達は怒りを爆発させて、イエスを眠りから起こすと、「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と問いただしました。すなわち、困った時の神(イエス)頼みという訳で、弟子達は主イエスになきついて、必死で助けを求めたのです。 続きを読む