「永遠に残るもの」  ― 「生死学」と聖書 ―

「人は皆草のようで、その栄華は、
皆、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。
しかし、主の御言葉は、とこしえに残る。」 (現代約Ⅰペテロ 1:24)

親しい人、特に、肉親の死に直面する時、私達は、人生には終わりがあることを改めて自覚します。そして、死者に対する愛情が細やかで深いほど、悲しみも尽きないものです。しかし、上の御言葉は、これらの暗い現実を払拭し、新しい希望の光を私達の未来に与えてくれる思いがします。
「死」、それは、信仰のない世界では、永遠の別れを意味します。死はいつ訪れてくるかは分からないし、人はどんなにもがいても死を避けられない事実を自覚し、死の不安におびえざるをえません。彼らにとって、死は依然として完全な謎なのです。
「死」という言葉がまだタブー視された日本で、約40年前から「生死学」という新しい概念を教え、定着させてきたアルフォン・ディーケン氏(上智大学名誉教授・ドイツ生まれ)という人物がおられますが、彼が「死と生とユーモア」という講演の中で次のようなことを言ったそうです。
「私は今日この講演で、皆さんに新しいデータをお知らせしようと思っています。夕べ遅くまで、調べました。・・・驚いたことに、日本人の死亡率は100%になりました。」
このユーモアをどこかでお聞きになった方がいらっしゃるかもしれませんが、確かに、この世の中にあって、人は皆、草のごとく必ず滅び、いかなる繁栄を誇った人物といえども、死を避けることは出来ませんでした。
しかし、聖書は私達に、「主の御言葉はとこしえに残る」すなわち「永遠に残るもの」があると断言しています。
「死に対する解決」それは永遠という概念を抜きにして、決して与えられないでしょう。クリスチャンにとっても愛する人との永遠の離別はもちろん辛いのです。しかし、死は終わりではなく、「新しい命」への復活、新しい世界(天国)への旅立ちであると信じる信仰によって、希望が与えられるのです。
「死」は、いつの時代にもどこの国の人間にとっても、重大な意味を持つものとして自覚されてきました。すべての人は、やがて死にます。これは、だれも避けることの出来ない運命です。しかし、キリストの誕生(クリスマス)は、この私達に死なない命、永遠の命を与えてくださるためのものでした。キリストは十字架で、私達の罪の身代わりとなって、死なれましたが、死から復活し、すべての人の永遠の命の根源となって下さったのです。
「神はその独り子であられるイエス・キリストをこの世に遣わされ、十字架上で私たちの罪の身代わりとして死なせるほどに、私たちを愛してくださった。それは、イエス・キリストを信じる人がだれであろうと、滅びることがなく、救われるためである。」                               (ヨハネ 3:16)
「わたしは死人を復活させ、また、死んだ人にもう一度命をあたえて、生き返らせることのできる者です。わたしを信じる人はたとい死んでも、再び生きることができます。また、わたしを信じる人々は永遠の救いに入れますから、決して滅びることはありません。」                      (ヨハネ 11:25、26)
キリストを信じる時、私達には新しい命、生き方、永遠の命が与えられるのです。イエスが二千年前十字架上で流された「血潮の力」はあなたを罪と滅び(死)の縄目から開放し、あなたに、「永遠の命の喜び」を与えてくれるのです。
クリスマスの本当の祝い方は、この救い主、イエス・キリストを自らの救い主として信じ、受け入れ、神様が、本当にあなたにプレゼントしようとしておられる「永遠の命の喜び」を頂くことなのです。
「甦りの主が、いつもあなたと共におられ、あなたを導き、
 あなたの心に神の愛を明らかにしてくださいますように! アーメン」

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