『カルメル山の輝かしい勝利の裏で』 (絶頂のあとに訪れる「深い谷底」)~『続エリア物語』~

『カルメル山の輝かしい勝利の裏で』 (絶頂のあとに訪れる「深い谷底」)~『続エリア物語』~

私たちの人生において、大きな目標を達成した時や劇的な転機を迎えた時、「これで悩みはすべて解決した。これからは順風満帆だ」と期待することがあります。しかし現実には、大きな成果や成功のすぐ後に、予想もしなかった壁や深い虚無感が襲ってくることがあります。
聖書に登場する預言者エリヤも、まさに人生の絶頂にいました。カルメル山で天からの火を呼び寄せ、450人のバアルの預言者たちを打ち破る圧倒的な大勝利を収めたのです(列王記上18章)。しかし、物語は誰もが予想しなかった展開を見せます。
大勝利の直後、彼を待ち受けていたのは、王妃イゼベルからの冷酷な殺害予告でした。つい先刻まで奇跡を行っていたエリヤは、激しい恐れのあまり荒野へと逃亡し、重度の燃え尽き(バーンアウト)と絶望に陥ってしまったのです。

② 【魂に与えられた奇跡(「かすかな細い声」で語りかける愛)】
体を休め、40日歩いてホレブ山の洞穴に宿ったエリヤに、神様は「洞穴から出て、山の上で主の前に立ちなさい」と呼びかけられます。
その直後、岩を砕くほどの激しい風、グラグラと揺れる地震、燃え盛る火が山を襲いました。しかし、神様はその中におられませんでした。すべてが静まったあとに聞こえてきたのは、「かすかな細い声(静かなささやき)」でした。神様は力づくで圧倒するのではなく、その静けさの中で、エリヤの傷ついた心にそっと語りかけられたのです。

さらに神様は、「バアルに膝を屈していない者が、まだ7,000人残っている」と告げられました。エリヤを苦しめていた「自分だけが孤立している」という恐れと孤独感は、この静かな御言葉と神様の愛によって、温かく打ち砕かれたのです。

2.【暗闇の中でも変わらない ── 神様は「共にいてくださる」という希望】
暗闇のただ中にいる時、私たちは「誰も自分を理解してくれない」「神様さえも自分を見捨てられたのではないか」という強い孤立感に包まれます。しかし、聖書が私たちに語りかける最大の真理は、「どれほど深い谷底にいても、神は愛であり、決してあなたを捨てず、共に歩んで励ましてくださる」ということです。

この真理は、時代を超えて今を生きる私たちにとっても、まったく変わらない確かな希望です。あなたがどのような苦しみや孤立感の中にいたとしても、あなたを愛し、支える目に見えない温かな手が、いま確かに寄り添っています。

今どのような深い谷底や暗闇の中にいたとしても、あなたを優しく包み込む「かすかな細い声」に心を澄ませてみてください。神様は今日も、あなたを愛し、励まし、共に歩んでくださっています。
皆様の日々の生活の中に起こってくる様々な問題に、神様が確かな解決と導きを与えてくださいますように。そして、いま病の中にある方、心身ともに疲れ果てている方の上に、天からの豊かな力と深い癒しが注がれますよう、心よりお祈り申し上げます。

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「エリアの物語が教える勝利への歩み!」

《エリヤの5つの奇跡:絶望から勝利への歩み》  (紀元前9世紀頃)
①【ケリテ川でのカラスの養い】〜孤独の中の「絶対的な守りと備え」〜
「イスラエルに干ばつを預言したエリヤ」は、神の命によりヨルダン川の東にあるケリテ川に身を隠します。人目も遮(さえぎ)られた孤独な潜伏生活の中で、神は思いがけない存在――「カラス」を用いて朝と夕にパンと肉を運び、エリヤを養われました。
自分の力ではどうにもできない荒野において、神は自然界さえも動かして「必ず必要を満たされる方」であることを、エリヤはまず静かな隠れ家で深く味わったのです。
やがて川が干上(ひあ)がると、神の御手は次の場所――サレプタの貧しいやもめのもとへとエリヤを導いていきます。
②【かめの粉と瓶の油の奇跡】〜日常の中の「小さな信頼」〜
深刻な飢饉(ききん)の中、サレプタの貧しいやもめは最後の一食を食べて死を待つばかりでした。しかし、エリヤを通した神の言葉を信じてわずかな食糧を捧げたとき、
「かめの粉も瓶の油も尽きない」という絶え間ない供給が始まりました。自分の限界を委ねることで、神の無限の備えを体験する訓練の第一歩となったのです。
③【少年の復活の奇跡】〜死の限界を超える「命の主」〜
生活の危機を乗り越えたやもめを、さらなる悲劇が襲います。一人息子が病で息を引き取ったのです。激しい絶望の中でエリヤが深く祈りすがると、神はその祈りに応えて少年に命を吹き返させました。神は単に生活を支えるだけでなく、「死をも打ち破る命の主」であることが示された瞬間でした。
④【カルメル山の戦い】〜国家規模で示された「唯一の神の権威」〜
隠された場所で神の権能を体験したエリヤは、イスラエル全土が見守る公の舞台へ立ちます。450人のバアルの預言者と対峙したカルメル山で、エリヤは祭壇に大量の水をかけて逃げ場をなくした上で静かに祈りました。すると天から火が降(くだ)り、生け贄(にえ)も石も水もすべて焼き尽くしたのです。

《民の告白》: 圧倒的な光景を目撃した民はひれ伏し、「主こそ神です!」と真の神への信仰を公に告白しました。
《偽りの預言者への裁き》: エリヤの命により、民はバアルの預言者たちを捕らえてキション川に連れ下って殺しました。こうして偽りが取り払われ、長かった干ばつに終止符を打つ大雨が降ったのです。

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【この物語が私たちに語りかけるメッセージ】
ついに降り注いだ恵みの雨。そこにあったのは、単なる偶然ではなくエリヤの「信仰」と「あきらめない祈り」でした。この出来事は、壁にぶつかった私たちがどのように生きるべきか、3つの大切な教えを残してくれています。1)人事に尽くして天命を待つ(ベストを尽くして祈る)
エリヤはただ「雨が降ればいいな」と待っていたわけではありません。膝の間に顔を埋めるほどの必死な姿で祈り、行動しました。
日本の諺に「人事を尽くして天命を待つ」とあります。英語でも “God helps those who help themselves.”(神は自ら助ける者を助く) と言われるように、自分にできるベストを尽くし、あとは天(神様)に委ねる。この「誠実な努力」と「祈り」が合わさった時に、奇跡の扉が開きます。
2)「手のひらサイズの希望」を信じる
何も変化がないように見えても、エリヤは諦めずに7回も確認させました。そして見えたのは、広大な空に対してあまりにもちっぽけな「手のひらほどの雲」です。

普通なら見過ごしてしまうような小さな変化。しかしエリヤは、それを大雨の前兆だと信じ切りました。 聖書にはこんな言葉があります。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することです。」 — ヘブル人への手紙 11章1節
目に見える現実がどんなに絶望的でも、小さな希望の種を信じて育むこと。諦めずに祈り続ける情熱こそが、雲ひとつない空に大雨を降らせる力となります。
3)準備ができた人に、風は吹く
「小さな雲」を見た瞬間、エリヤは即座に行動を起こしました。そして神様の力を受けた彼は、馬車をも追い抜くほどの力で走り出します。
古代ローマの哲学者セネカは言いました。
「幸運とは、準備が機会に出会うことである。」
日々祈り、信じ、準備を重ねてきたからこそ、エリヤは奇跡の波に乗ることができました。私たちがベストを尽くして天を仰ぐとき、想像を超える「追い風(奇跡)」が背中を押してくれるのです。

【まとめ】 今、もしあなたの人生が「乾き切った荒野」のように思えても、あきらめる必要はありません。 祈り、信じ、自分にできるベストを尽くして、天を仰ぐこと。 あなたの空にも、やがて「手のひらほどの小さな雲」が現れ、人生を潤す恵みの雨が降り注ぐ日が必ずやってきます。
様々な問題の解決、病の癒しのために、今日も祈りつつ前進していきましょう!

石井十次に学ぶ

 日本には、クリスチャンが少ないと言われますが、歴史の節目に、しばしば、聖書の影響を受けた人々の活躍を見ることがあります。宮崎の地にも、その功績から「孤児の父」と言われている、岡山孤児院を創立した明治期の慈善事業家、クリスチャンの石井十次(1865~1914:宮崎県児湯郡出身)という人物がいます。 
 石井十次は、1865年(慶応元年)4月11日、高鍋藩士・石井万吉の長男として生まれ、17歳の時、宮崎病院長の荻原百々平(どどへい)医師と出会います。荻原医師より「医師になって多くの人を救ってみないか」と勧められ、十次は岡山県甲種医学校へ入学。同時に岡山基督教会の金森通倫牧師を紹介されて、キリスト教の世界観が十次の中で徐々に広がっていきます。金森牧師よりキリスト教の洗礼を受けたのは、十次19歳の時でした。 明治20年、岡山県邑久郡大宮村上阿知診療所で医学の学びをしている時に、四国巡礼帰途の母親から男児を1人預かるのですが、このことがきっかけで、孤児救済事業へと導かれて行きました。預かる孤児が増えてくると、その資金集めに走り回る日々が続き、医者になるための勉強がほとんどできなくなりました。
 明治22年(1889)の正月「だれでも二人の主人に兼ね使えることはできない」(マタイ6:24)という聖書の一節を目にした十次は、「医者を志す者は他にもいる。自分の一生を孤児救済に捧げよう」と決心しました。十次はそのことを確認するかのように、6年間学んだ医学書などをお寺の境内で、燃やしてしまいました。 明治20年岡山に孤児教育会(後の岡山孤児院)を設立し、39年には1,200人にのぼる孤児を収容。(結果的に3000人以上の孤児を救済したとされています。)44年に宮崎県茶臼原に孤児院を移し、里親村づくりや孤児の労働による自立を指導しました。また、情操を豊かにするため「風琴(ふうりん=オルガン)音楽隊」を設立。 彼は、生涯を孤児救済にささげ、多くの孤児たちのために、まさしくキリスト者として「公」のために生きたキリスト教伝導者と社会事業家と教育家の全てを兼ね備えた救済事業家でした。
 十次の残した言葉に次のようなものがあります。「信じて疑うことなかれ、祈りて倦(う)むことなかれ。為せよ、屈するなかれ。時重なれば、その事必ず成らん」そして、この言葉の後半の部分が、平成28年1月、安倍晋三首相が国会で行った施政方針演説で用いられ、石井十次のことが広く知られるきっかけとなりました。 安倍首相は施政方針演説の「おわりに」という項で、次のように十次を紹介し、言葉を引用しています。「日本で初めての孤児院を設立した石井十次は、児童福祉への『挑戦』に、その一身をささげました。たくさんの子どもたちを、立派に育て上げ、社会へと送り出しました。
 孤児がいれば救済する。天災のたびに子どもの数は増えていきました。食べ物が底を尽き、何度も困窮しました。コレラが流行し、自らも生死の境をさまよいました。 しかし、いかなる困難に直面しても、決して諦めなかった。強い信念で、児童福祉への『挑戦』を続けました。 『為せよ、屈するなかれ。時重なればその事必ず成らん』」
 十次が児童福祉へ挑戦し続けたように、コロナ禍の速やかな終息のために、ウクライナの平和のために、そして、福音の前進のために、倦むことなく、祈り続けてまいりたいと思います。そして、どのような環境の中にあっても、万事を益としてくださる主が、マイナスをプラスに変えてくださいますように!「為せよ、屈するなかれ。時重なれば、その事必ず成らん!」(2022.7)

「すべてを支配しておられる神様」 ―主はあなたの造り主― 3

(3)「そのとき、神が、『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」(3節)

混沌とした世の中で、私達は、しばしば自分の人生や存在価値について考えさせられることがあります。また、人生の悩み、問題、病苦にぶつかったりして、心が暗くなり、どうしようもない時がありますが、そのような時、この聖句を口ずさみ、もう一度、神を仰ぎ見ることを通して、新たな希望と可能性が、心の中に湧き上がってくることを覚えるのです。

私達は、この世に存在しているゆえに、この世の支配(私達の社会や環境の影響・暗闇の力)を受けることは避けられないでしょう。しかし、聖書の中に、この世のいかなる重荷や誘惑にも屈することのなかった一人の人物を見ることができます。それが、「わたしは世の光です。わたしに従って来る人は、決して暗闇の生活をすることなく、命の光を持つことができます。」(現代訳 ヨハネ8:12)と言われた、神の御子、イエス・キリストです。

聖書にはそのことを象徴する一つの出来事が描かれています。
イエスが巡回伝道をしておられたある日、ガリラヤ湖で、弟子達と共に乗っておられた舟が激しい突風に出会ったことがありました。(マルコ4:35~41)ガリラヤ湖は、地形的には、周りを山に囲まれた谷にある湖といわれています。それで、しばしば、「吹き降ろしの強い風」が吹くことがありました。弟子達を襲ったのも、この激しい突風だったと推測できます。高波が生じ、波が打ち込んできて、舟がまさに、波に飲まれそうになった時、弟子達は慌てて、不安におのきました。そして、嵐の中で懸命に舟を守り、向こう岸へたどり着こうとしました。ところが、同舟(どうしゅう)しておられたイエスは、まるで、この激しい嵐を知らないかのように、「ともの方で、枕をして、眠っておられた」(38節)と記されています。このイエスの様子が、あまりにも呑気に見えたのでしょうか、弟子達は怒りを爆発させて、イエスを眠りから起こすと、「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」と問いただしました。すなわち、困った時の神(イエス)頼みという訳で、弟子達は主イエスになきついて、必死で助けを求めたのです。 続きを読む →

「すべてを支配しておられる神様」 ―主はあなたの造り主― 2

(2)「地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」(2節)

これは、有名な「天地創造」の創世記の冒頭の御言葉です。天地の創造の次第は、地は形なく、やみが大いなる水の上にあり、神の霊が水の上を動いている原初の状態から始まります。すなわち、カオス(chaos:天地創造以前の混沌とした状態)の状態に、歴史の始まりである創造主なる神だけが存在していたと聖書は語っています。
宇宙の最初の状態がカオスであったということは今日、科学者も認めていることですが、この状態から、世界は「神の言葉」によって、秩序へと向かっていったのです。そして、この混沌とした中に、「光よ。あれ。」という神の言葉が響いた時に、闇は打ち砕かれ光が生じ、更なる、神による創造と秩序の世界が広がっていきました。すなわち、神は材料も道具も用いずに、「神の言葉」によって創造を進められました。
この箇所を現代訳の聖書で見ると、より深い、聖書の真理に触れる思いがします。
「地球とは言っても、まだ形が無く、混沌としており、真暗闇で、液状であり、神の御霊は、あたかも雌鳥がその翼を広げてひなをはぐくんでいるかのように、その上を覆っていた。」  (2節)
神の恵みを体験したい、神の祝福に与かりたいと真剣に願うなら、私達は常に、「無からの創造」と呼ばれるものに挑戦しなければいけません。すべてのものの背後に神がいまし、神のみがいますという信仰(信じる力)に立たなければいけないのです。常に、この世界は神の世界であると信じ、世界を支配しておられる全能にして愛なる神様は、日夜、御自分に対して祈り叫ぶものに積極的に密接な関わりを持とうとしておられると信じなければいけないのです。 続きを読む →

「すべてを支配しておられる神様」 ―主はあなたの造り主― 1

世界のベストセラー聖書は、天地万物を造られた全知全能の神の創造の歴史を持って初められています。聖書の最初の御言葉、創世記1章1~3節より次の3つの点について学んでみたいと思います。

  • (1)「初めに、神が天と地を創造された。」(1節)
  • (2)「地は形なく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。」(2節)
  • (3)「そのとき、神が、『光よ。あれ。』とおおせられた。すると光ができた。」(3節)

(1)「初めに、神が天と地を創造された。」

 江戸時代に、この聖書の1節に衝撃を受け、その人生が全く変えられた人物がいます。後に、同志社大学を創立した、新島譲です。
 新島氏のように、この聖書の言葉を読んだだけで、この万物(私たち人間を含む)が決して偶然によって造られたものではなく、創造主の愛の対象として目的を持って作られたことを悟り、信じることが出来たとしたら、それは、大いなる恵みであり、祝福であるといえるでしょう。そして、さらに、聖書は、この万物の源であられる神様は、私たち一人一人をもその母の胎の中にいるときより恵みの中に育み創造して下さったといっています。 続きを読む →

「永遠に残るもの」  ― 「生死学」と聖書 ―

「人は皆草のようで、その栄華は、
皆、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。
しかし、主の御言葉は、とこしえに残る。」 (現代約Ⅰペテロ 1:24)

親しい人、特に、肉親の死に直面する時、私達は、人生には終わりがあることを改めて自覚します。そして、死者に対する愛情が細やかで深いほど、悲しみも尽きないものです。しかし、上の御言葉は、これらの暗い現実を払拭し、新しい希望の光を私達の未来に与えてくれる思いがします。
「死」、それは、信仰のない世界では、永遠の別れを意味します。死はいつ訪れてくるかは分からないし、人はどんなにもがいても死を避けられない事実を自覚し、死の不安におびえざるをえません。彼らにとって、死は依然として完全な謎なのです。
「死」という言葉がまだタブー視された日本で、約40年前から「生死学」という新しい概念を教え、定着させてきたアルフォン・ディーケン氏(上智大学名誉教授・ドイツ生まれ)という人物がおられますが、彼が「死と生とユーモア」という講演の中で次のようなことを言ったそうです。 続きを読む →

「人生の荒野を通して」

おおきな事をなそうとして力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるように健康を求めたのに
より良きことができるように病弱を与えられた。
幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと弱さを授かった。
人生を楽しもうとあらゆるものを求めたのに
あらゆるものを喜べるようにといのちを授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた。
神のみこころにはそわない者であったにもかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
わたしはあらゆる人の中で最も祝福されたのだ                                 

この詩は、ニューヨーク市立大学のリハビリテーション研究所の壁に刻まれているものですが、作者は不祥とされています。ベトナム戦争で心身ともに深く傷つきながら、立ち直っていった若者の作とされています。 続きを読む →

「信仰」と「癒し」 スピリチュアル・ヒーリング療法

「日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いていやされた。」                           (ルカ4:40)

「病人に手を置けば病人はいやされます。」      (マルコ16:18)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のみもとに行くからです。」           (ヨハネ14;12)

癒しという言葉が現代社会のキーワードとなり、リラックスをすること、また、ストレスから解放されることを求める人達の需要は年々高まって来ています。そこで、今回の「チャペルだより」では日本ではあまり知られていない、「スピリチュアル・ヒーリング療法」について考えてみたいと思います。 続きを読む →